其の2「今、元気に向かって歩き出す」 By 門 いく
[2009/9/18]

 市の健康診断を毎年受けていますが、いつもオールA。異常無しの合格通知が、データと共に送られてきていました。でも2008年、乳ガン検診だけは、まだ受けていませんでした。面倒だから今年は検診を申し込むのを止めようと思っていたのです。そんな時、兄が病院へ行くというので「それじゃあ、やっぱり」と、乳ガン検診の申し込みを依頼しました。もしこの時、頼まなかったら、今の元気な私が存在しているかどうかと思うと、ぞっとします。

 まるで秋晴れのような日。健康が取り柄の私に、突然、乳ガンの疑いがあるという検査結果が出たのです。

 診察室でマンモグラフィの映像を診ながら先生は「気になる箇所があります」と指摘しました。もうその言葉を耳にしただけで、『何なの?信じられない!それってどういう意味?』そんな言葉が頭の中でぐるぐる回り始め、フィルムを診ている時の先生の沈黙が、いやに長く感じられました。そして「再度違う方向からのマンモグラフィと、超音波検査をします」と言われました。昼休みを利用しての検診だったので、とにかく会社には「検査が長引きそうなので」と直帰願のメールを。
 今までこんな事が一度もなかっただけに、不安で胸がいっぱいになりました。視触診では異常がありませんでした。しかしフィルムには、本当に薄くですが白くて丸いものが……。先生も判断出来ないくらいだとのこと。しかし、年末間近ということもあり、このまま年を越すことを考えると「白か黒かはっきりして新年を迎えたい」という思いが。「細胞を切り取って検査すれば分かりますが」という先生の言葉で、即予約を入れました。

 それでも心はモヤモヤ…誰かに聞いてほしい。話をしたい。忘れたい。まだ乳ガンと決まったわけではないのだから、くよくよするのは止そう。病院の駐車場から友人に電話をして、その夜、お酒を飲み、話をして気持ちが落ち着き、すご〜く楽になり、恐怖心が嘘のように消えて、しばらくは普段と変わらない日々を過ごすことが出来ました。友人に感謝です。仕事を持っていたことも良かったと思います。

 いよいよ麻酔をして細胞を採取。一週間後、結果が…。乳ガンでした。2回目の衝撃でした。本当に頭が真っ白になりました。今度は誰とも話をしたくなかったです。すべて一人で受けとめて、乳ガンの手術に挑みたいと先生に話しました。先生はご自身の身内の例をあげて励ましてくれました。でも治療や手術上、認められない場合もあるというので、娘と姉には事実を話しお世話になることにしました。

 自分が告知されて、初めて分かった事がありました。三年前、亡き父がガンと告知された時、父はどんな気持ちだったのかしらということです。あの時、私が付き添いをしていました。告知のあと、私の運転する車の中で、衝撃と悲しみで父は上の空だったような気がします。私は、悔しかったです。父を家まで送り届けてから我が家に着くまで、車中で号泣したことを思い出しました。カーラジオからはコブクロの『桜』という曲が流れていました。今でもこの曲を聴くと涙が…。気の弱い性格の父、あの時の父の気持ちを思い返してみると、医者はなんて残酷なことを、と恨みたくなります。大抵のことは大丈夫、と思っていた私ですら二回もショックを受けたのですから、父はどんなに…。私も同じ立場になって、心の痛みが身に沁みました。でも、亡くなる前の父はとても前向きに生き、娘の私も「あっぱれ!」と言いたい“病との戦い”でした。

 さて、私にはもう一つ心配事がありました。母のことです。家の中で転倒して歩くのが困難になり、一ヶ月前に入院した母が居たからです。年老いた母には、何も言えません。仕事が終わってから毎日病室に顔を出して、身の回りの世話をしていた私が、急に来なくなったら不思議に思うでしょう。頭はしっかりしていて、私を頼りにしている母。私自身も看病する喜びを感じていた矢先でした。母に全てを話して甘えられない辛さは、私の半世紀の人生の中でも経験したことのない、言葉に出来ないほどの悲しさでした。私の娘の提案で、手術の時は「風邪をひき、うつすといけないからと説明し、しばらく母の世話を離れる」ということにしました。そして「とにかく自分の体を一番に考えなさい」という義兄の一言で、すぐ手術をすることにしました。

 手術の前日まで仕事をしました。しかし母の病室には3〜4日前から足を向けることが出来なくなりました。母の顔を見たら泣いてしまいそうだったからです。

 手術は無事終わりました。が、術後の注意事項が色々と説明され、ストレスは溜まる一方でした。もう私は何も出来ないの?という思いが胸をよぎります。なぜなら術後の体は予想以上に大変で、痛みはないけれど、力が入らず、自由に寝返りもうてません。起きる時は、ずど〜んという何とも言えない感じです。
 術後3週間で仕事に復帰。それからは約一ヶ月、毎日、仕事をしながら放射線治療が続き病院通いです。おしゃれをしたいという気力もなく、朝、仕事先へ着ていく服を選ぶのも憂鬱でした。食料品の買い物さえ上の空。とにかく仕事が終了したら、一人になりたくて、すぐ家に帰りたい日が続きました。
でも仕事を始めてからは母のところへも行くようになり、ホッとし、新年を迎えました。

その矢先です。年明けの二日、母が他界。

今、私が「元気」に向かって歩き出せたのは、家族 友人 医療スタッフの方々のおかげだと思っています。感謝の気持ちは、手をいっぱいに広げても足りないです。
 人生は選択の連続です。人は一つの道を選択するたびに、それまで手の中にあった他の可能性をすべて捨てなくてはなりません。だから何事も心して選びたいと思うのです。他の可能性を捨てて選んだ一つの道、その先には、また新しいわかれ道が必ずめぐってきます。もし間違えた道を選んだと気づいたならその先にある分岐点で考えればいいことなんですから。そう考えたら気持ちがすごく楽になりました。
 医師からの告知のあと、いつまでも悲しみや動揺の中に身を置くか、それとも積極的に前を見据えて一歩踏み出すか―私は後者を選びます。そして、今、前向きに生きようと努力しています。

 天国にいる両親のためにも、精一杯生きようと思います。そして、まだ一年も経っていませんが、元気な姿を娘にも見て欲しいし、自分のためにも明るい人生を送ろう、一日一日を大事に過ごしていきたいと願っています。

2009年9月18日 門いく



 去年2月、私は初めて乳ガン検診を受けました。検診の内容は‘問診’‘マンモグラフィ(エックス線検査)’‘視診’‘触診’です。異常無しでした。その時、担当医に「理想的には半年に1回、少なくとも1年に1回はマンモグラフィの検査を受けた方がいいですよ」と言われました。にもかかわらず、今年2月は何かと忙しく「めんどうだなァ〜まだ、いいか」とそのまま時はあっという間に過ぎてしまい夏になっていました。そして1年半目の先月、重い腰を上げてやっと検査を受けたのは、門いくさんの手記を読んだからです。おかげさまで、今回も異常無し、ほっとしました。しかしこれで一生安心ということにはならないのです。脅すわけではありませんが、或る日突然見つかるかもしれないのです。門さんの体験は決して人事ではない、と思いました。
 昔と違い、乳ガンは今日(こんにち)治る病気になった、とどこかで聞きました。それには「早期発見、早期治療」が条件です。だから、だから早く見つけるためにはまめに検査を受ければいいわけです。もし万が一見つかったらできるだけ早い対処を!『門いく』さんの場合も「今年はいいか?」と思っていた時に、たまたまお兄さんが病院へ行くと聞いて‘ついで’のように検診を申し込み‘見つけた’とのこと。このままの気持ちで年を越したくない、とすぐさらにつっこんだ検査を受け「早期発見、早期治療」ができたわけです。本当に本当に良かった!良かったですねっ!!もしかしたら亡くなったお父さんが守って下さったのかもしれません。  この手記を読ませていただくと、今“元気に向かって歩き出した”門さんが、簡単に前向きになれたのではないことが分かります。ここまで辿り着くのに越えてきたいくつもの心の波。‘人はそれぞれが背負えるだけの荷を背負って生きている’という言葉を聞いたことがありますが、やはり‘その荷’に押しつぶされずに歩き続けるのは大変なことですよね。門さん、スゴイです!
 でも、すっかり元気を取り戻すまではあまり無理をしすぎないで、くれぐれもお身体大切になさって下さいね!疲れたときには、回りの方々や私にもグチッたり弱音を吐いたりして下さいね。私からのお願いです。
 門さん、この手記を掲載させて下さったこと、本当にありがとうございました。
 これをお読みになった女性で、まだマンモグラフィ検査を受けたことがない方がいらしたら是非今すぐ申し込んで下さい。よく「痛い」と言いますが、そんなに恐れるほどの痛さではありません。兄弟げんかで、つねったらつねりかえされた、という程度のことです。大丈夫。これで安心を得られるのですから。これを読んだ方が一人でも多くマンモグラフィ検査を定期的に受けるようになってくれることを、きっと門さんもそう望んでいると思います!
女性の皆さん、めんどくさがらずにマンモグラフィ検査を受けましょう!私も頑張ります。
土井 美加



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