REIKOの紹介文 今回、ワタラッパンな女たちに登場して下さるのは、ただ今72才で、現役でお仕事をされている女性、江崎甲(はじめ)さんです。本業がタイプライターを打つのを職業とするタイピストさんでありながら、64歳で役者さんになられたスーパーウーマンです。ちなみに、ワープロやパソコンがなかった時代には、指で鍵盤をたたいて、文字を紙面に印字する器械であるタイプライターが主流でした。江崎さんは英文タイプのみならず、スペイン語もこなし国際会議の仕事でも活躍されていました。江崎さんは、私の母と同じ位の年齢なので、つい母を基準に考えてしまい、64歳を過ぎてからダンスをしたり、ミュージカルや芝居やドラマに出る事がただただ凄いとしか思えません。が逆に江崎さんの生き方を目の当たりにして、「人生っていくつになっても諦めないで、好きだと思える事に挑戦して行く事で道は開かれて行くんだ」と痛感させられました。また、一歩踏み出す勇気があれば、何かが見えてくるという希望や夢を大切にし実現させていく姿勢を学びました。そんな江崎さんですから、いつお会いしてもはつらつとした笑顔が素敵です。常に新たな挑戦に胸を躍らせて、人生を楽しんでいらっしゃるのが、その表情から溢れ出ているのです。 でも、その人生、楽しい事ばかりではなかったはず。江崎さんは私の経験しない戦争に10才にして巻き込まれ、翻弄されつつも、気丈に生きてこられた72年の歩みを振り返って下さいました。まさに"女半生記"。是非いろんな世代の方々に読んでいただきたいです。「運命に導かれて〜72年の歩み」と題しまして、数回に分けてご紹介させていただきます。 ●VOL.4 運命に導かれて〜72年の歩み(1)(2004 4.22) 昭和6年12月16日、平和な島サイパンで産声をあげた私。出産予定は翌年の1月だったのに、何を慌てたのか忙しい月に生まれたため、誕生日を祝ってもらった覚えは一度もない。まあ、家が貧乏であったためでもあるが・・・。長じてから、下の姉に「誕生日は忘れられてばかり」とぼやいたら、「私達が忙しい時に生まれるからよ。」と言われてしまった。自分の意思で慌てて出てきたのではないのに・・・。姉達(存命中の)の職業は小学校の教師だった。でも、父母には愛されていたと感謝している。この姉には「お父さんが甘やかしたから、こんな我が儘な自分勝手な子になった。」と、若かりし頃よく言われた。両親はじめ上3人の姉達とたった1人の兄は、九州福岡の人間で、兄が5歳の時にサイパンに渡ったのだそうである。そして、二つ違いの姉と私が生まれたのだそうだ。この姉は、私が生まれる前に亡くなってしまった。若い頃は「この姉が生きていてくれたら」と、よく思ったものである。 甲(はじめ)という私の名前は、父の一番下の弟が付けてくれたのだそうである。由来は知らない。聞く前に叔父が亡くなってしまった。母は、「女の子らしい可愛い名前を付けていたのに」と言っていたが、「どんな名前だったの?」と聞いたら「覚えていない」そうである。まったくもう・・・。でも、私は自分の名前が気に入っている。どういう訳か、一番上の姉と私の名前をこの叔父が付けてくれたのだそうである。私が覚えている子供の頃の思い出は、アスペルデートという山の家から、看護婦だった2番目の姉に連れられ、サトウキビ畑を通って、チャランカという町にあった幼稚園に通っていたこと。ある年の4月29日(当時は天長節の日と言っていた)に、着物を着て幼稚園に行き、式だけだったので早く終わり、一人で帰るよう姉に言われて、サトウキビ畑を帰っている時に、後ろから声を掛けられてびっくりし、泣きながら姉の所へ戻って行ったこと。声を掛けた人は、知り合いのチャモロ族(サイパンには、このチャモロ族というスペイン系の島民と、カナカ族という土着の島民がいた)の男性だったことを後で知った。彼の方もその時の姉とは、小学校4年生の時に別れたきりで、サイパンの玉砕の時に父と共に亡くなってしまったので、その時の様子を詳しく聞くことはもう出来ない。小学校にも、しばらくは山の上から通ったと思う。何年生の時までかは覚えていないが、学校の帰りに、アイスキャンデー売りの小父さんを山の家のところまで引っ張って行った事や、途中の林の中のヘビで、男の子に驚かされた事等を覚えている。その後、町の社宅(南洋興発株式会社の)に越し、更に小学校のすぐ傍らの家に越した。この頃は、社長さんのお嬢さんの相手をさせられ、いつも学校ごっこばかりしていた。おままごとをしたことは、一度も無かった。サイパンでの思い出はまだいろいろあるが、又の機会にしよう。
小学校4年生の2学期の最終月に、母が自分の父親が危ないというので、内地(当時は日本列島のことを、こう呼んでいた)に帰ることになり、私も「女学校は内地が良い」という両親の考えで一緒に内地に渡った。昭和16年12月1日に横浜に着いたその7日後に第二次世界大戦(大東亜戦争)が始まって、二度と父や姉、伯母や従姉妹に会えなくなるなどとは露知らず・・・。 女学校が、中学校と高校とに制度が変わり、私達は女学校で卒業する人ともう一年残って高校で卒業する人とに分かれた。高卒の方が就職に有利であるとのことで、姉達は私をもう一年学校へ通わせてくれた。この時、いつも我が家を見守って下さっていたご近所の方が(確か、ファスナーの会社の社長さんだったと思う)、ご自分の会社に来ないかとおっしゃって下さったのだが、「もう一年学校に行くことにしたから」と辞退したそうである。もしこの時お受けしていたら、どんな道を歩いていたのだろうか? 次回へ続く… |
江崎 甲(2004 4.22) |