VOL.5 運命に導かれて〜72年の歩み(2)(2004 5.24)

折角高校まで行かせて貰ったのに、片親だからという理由だけで、なかなか就職は決まらなかった。筆記試験は通っても、紹介して下さる方があっても、雇っては貰えなかった。自分より成績が下の人が受かった時は、とても悔しい思いをした。若気の至りとはいえ、折角ある先生が「友人が会社をたてるから、そこにどうか?」と何人かに声を掛けて下さったのを、皆がお断りしたので、私まで姉達に相談もせずに、お断りしてしまったことを後悔した。が、お受けしていたら、今の私は居ないであろう。
仕方がないので、母の手伝いが出来ない姉達にかわって、家で家事を手伝っていた。ある日洗濯をしていたら、兄が帰って来て、「すぐ支度をしてついてこい。」と言うので付いていったら、駐留軍要員健康保険組合東京支部の臨時雇いの仕事をもらって来てくれたのであった。仕事は難しくなかったし、皆さん良い方達ばかりで、毎日を楽しく過ごしていた。
この時、先輩たちが木曜会という演劇のグループを作って芝居の稽古をしていらしたので、そこへいれて頂いた。幼稚園の時に、3つのお芝居の主役をもらったが、本番で頭が痛くなり、内2つは代役に代わってもらい、1つだけどうしても代役が無理で、父が持ってきてくれた焼き海苔(先生方が下さった飴では駄目だった)を食べて主役を務めて以来のお芝居である。でも、ここでの芝居は、2〜3回の稽古だけで終わってしまった。この時の先輩方、マキシム、チャコちゃん、緒方さん、そして姉の様な気持ちで付き合っていた仲良しの木内さんは、どうしていらっしゃるだろうか?お元気なら、今の私を見て頂きたいものである。
さてそれから2年後、私は身分切り換えにより東京都外務室の事務補佐員となる。勤務先は同じである。

それから4か月後、兄の勤める中央労務管理事務所に転勤になった私は、津田英語会夕イプ科で英文夕イプを習った。終了後、事務所の課長さんに「駐留軍要員の職を頼んでやろうか」と言われたが兄の猛反対にあい、タイプ科の同じクラスに玩具の輸出業を営む同族会社の東京本店長の息子さんがいらしたお蔭で、その会社にクラーク・タイピストとして、雇って頂いた。ここでの仕事も楽しかった。上の方達に可愛がられ、大阪・名古屋の支店の方達にも良くして頂いた。4年間1日も休まず勤めたが、一寸辛いことがあってこの会社を辞めさせていただいた。
その後1年近くアルバイトをしていた時に、スペイン語を打たされて、言葉がわからないため英語のように手が動かなかったので、次にタイピストとして入社した会社にいる間にスペイン語を習った。この会社は10年勤めたが、女性は30才が定年と聞いた私は、スペイン語が役に立つような会社をと探した。幸い近くに、本社が北海道にある会社の貿易課があったので、そこに入社した。この会社には、たまたま道を歩いている時に、通りがかりの人に道を尋ねていらした南米のご夫婦のお役に立って上げたのがご縁で(聞かれた人が困ってらしたので、耳を傾けてみたらスペイン語だったので、少しは喋れた私がお節介をしたのです。この方々が輸入業の会社社長ご夫妻だったので)商売の仲立ちをして役に立つことが出来た。だがこの会社は1年半程で辞めざるを得なかった。義兄に自分の会社を手伝ってくれと言われ、迷いに迷った揚句、「今手伝わないと後で後悔するかも」と思い、大分会社の上役に慰留されたが、辞めさせていただいた。
にもかかわらず、義兄に「他人なら許せるが、身内だから許せない。」ような事を言われて、義兄の会社は1年足らずで辞めてしまった。だが、この義兄には母や姉達の事では感謝しているし、掛け替えのない人に巡り合えた事でも感謝している。「言われた仕事はきちっと出来るが、自分で仕事を探してくるなど出来なかった」私は、この人に「一人で仕事をするのなら、営業も自分でしなければいけない。10軒行って10軒断られてももともとなんだから。」と言われて、初めはとても辛かったが、だんだん1人で仕事を取って来ることが出来るようになっていった。この人には、いろいろと教えてもらったり、手助けしてもらったり、心の支えになって貰っている。
スペイン語の先生方にもお世話になった。特に、スペイン語学院の経営者でいらした副学院長でいらした瓜谷先生には大変お世話になり、お亡くなりになられた今でもご家族でお付き合い頂いている。こうして英語とスペイン語が打てるお蔭で、幾つもの翻訳会社の仕事や国際会議の仕事、スペイン語の先生方のお手伝い、日本製鋼所や上組への派遣など、様々な仕事を貰って食べて来ることが出来た。そして、いろいろな経験を積むことが出来た。特に、日本製鋼所の時には、3週間づつ2回モスクワに出張させてもらうことが出来た。日本とアメリカとロシアの3社会談をモスクワでするためだった。女性1人だったため、なかなか決まらず後から1人で行かなければならなかったが、とても大事にしてもらえた。今ならいざ知らず、あの頃では思いもかけない事である。国際会議でも、いろいろと楽しい思い出がある。中でも、ユネスコの会議とか、KDD(だったと思う。開催地は京都だった)とかWMOの会議(この時のご縁で、日本医師会には今でもお世話になっている)とか、外国の方々とー緒に同じ部屋でタイプを打ったり、事務局長が(WMO会議)メキシコ(だったと思う)の方だった時は、楽しかった。国際会議の仕事は、初めはJCS(ジャパン・コンベンション・サービス)の「国際会議での英文夕イピスト募集」に応募して始まった仕事だが、ユネスコの会議で都庁からイベントの事で来ていた兄にばったり会い、「お前なぜこんな所に居るのだ」と聞かれ、「かくかく、しかじか」といきさつを話した事から会議開催のリストを貰うことが出来(また兄に助けられた)、それぞれの会議の事務局長に直接交渉して仕事を貰うことが出来た。都庁の事務補佐員を辞めたことを、義姉に「あの時同じ事務補佐員だったあの人は、本採用になって、退職金も年金も貰っている。貴女も辞めなければ良かったのに。」といつまでも言われたが、そうしていたらこんな面白い人生を歩くことは出来なかったであろう。

こうして、40代50代は華やかな楽しい日々であったが(忙しくはあっても)、コンピューターの時代になって、言葉を知らなくても打てる、2文字打ってあったところへ3文字打つなどという細かい技術も必要ない、という時代になり、年齢制限も加わって段々仕事が無くなって来て、涙を流しながらタイプを打つ日が続いた。(義兄の会社を辞めて、スペイン語の恩師から底辺の仕事を頂いていた時もそうだったが、その時よりも金銭的にはいくらか楽になってはいた。)年齢制限のない仕事を、と探しているうちに、アエラ(だったか)という雑誌でモデルの募集記事を見てテストを受けたが、「受かったら入るのにお金が要る」と聞いて、仕事を貰うのにお金が要るのかと、今までに経験した事がないことにびっくりして聞きに行ったことが原因かどうか、専門家に立派な写真を撮って貰っただけで、見事に落ちてしまった。「モデルも駄目か」と言われたことが悔しくて又探しているうちに、(劇)東俳新人養成所の募集広告を目にし、住所がたまたま自宅での仕事を貰いに行く途中だったことが、芸能界入りのきっかけになった。 次回へ続く…

江崎 甲(2004 5.24)

江崎 甲プロフィール/昭和6年12月16日サイパン生まれ・女優・タイピスト

参考資料:江崎家の家族構成図サイパン島について


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